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文学でも絵画でも映画でも、それを「作品」として存在させるのは虚構性ではないかと思う。
いかに虚構を作り出すか。いかなる虚構を生み出すか。 虚構への情熱。 これこそが、創造者のもつ原始的な情熱と欲求だと思う。 井伏鱒二は「黒い雨」で野間文芸賞を受賞したとき、「記録を基礎にした作品で賞を受けることになんとなくためらいに似たものを感じている」と語ったという。 吉村昭は著書「万年筆の旅」のなかで、井伏鱒二のこの発言を引き合いに出して、自身の作品「戦艦武蔵」を執筆するまでの心の葛藤をこう記している。 「少なくとも私の考えてきた文学は、たとえ事実として存在したものを対象にしても、それが抽象化という作業によって、ある象徴にまでたかめられなくてはならないはずであった。虚構こそ文学であるという私の考え方からすると、当然事実性を重んじなければならない戦艦<武蔵>という実在物は、私の考えている文学の対象たり得ないと思えた」 映画でも同じことがいえる。 幸せなカップルを映そうと思ったら、10分のデートシーン、10秒の挙式シーンで充分だ。 そうではない。幸せをどう表現するか。どういう虚構によって描き出すか。それが創造ということのはずだ。 吉村昭の言葉をもとに、美しく完成度の高い虚構として思い出すのが、ペドロ・アルモドバルの 『トーク・トゥ・ハー』。 事故のせいで昏睡状態になった女性を愛し、献身的に世話をする看護士の物語。彼女への愛ゆえに、彼は越えてはいけない一線を越えてしまう。 「いい」「悪い」という判断が簡単には下せない美しくも悲しいこの物語は、実際にあったある事件をモチーフにしている。 事件の新聞記事を読んだアルモドバルはこの物語を書いた。その脚本があまりにすばらしく、主演女優のレオノール・ワトリングいわく「読み物として非常に面白かった」。 事実を伝えるのみの無味乾燥な新聞記事から、アルモドバルはまず文字によって虚構を生み出した。 その虚構を映像によって別の虚構として作り上げ、さらに「映画のなかの映画」というちょっとした仕掛けが、事実から生まれたこの物語を美しく詩的な虚構へと完成させる。 重なり合う虚構はアルモドバルの錬金術によって<映画>という「作品」になる。 そこにはないものに賭ける思い。 作り上げたもの=そこにあるものも、所詮は虚構というパラドックス。 このパラドックスに魅せられた作り手とその作品に、私は強く惹かれてしまう。
by inoasa
| 2005-06-02 17:17
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